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2010年9月 8日 (水)

旅と文庫本

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加賀乙彦の小説『湿原』(現在、岩波現代文庫より出版)を読んだのは、たぶん30才頃だろうか。細密な鉛筆画とともに朝日新聞に連載されていたこともあり、すぐに単行本で購入した。

その後、確か新潮社から文庫が出て、この厚くて長い小説をペルーの旅のバッグに入れた。旅の途中、首都リマの人気のないホテル(それはとても長くて暗い廊下を持つホテルだった)で読むにはぴったりの物語を再読した。天井の高い部屋のベッドにあおむけになり古びた電灯を眺めていると、時に忘れ去られたホテルと供に世界から隔離された気分に捉われた。

冷たいバスタブに暖かいお湯をはり疲れを取りたかったのだが、シャワーから出る水はなかなか温度が上がらなかった。お湯に浸かっても腕をもたれかけたバスタブが冷たかった。水が欲しくなりガス抜きのミネラルウォーターをルームサービスで頼んだが届くまで長い時間がかかった。夜になり廊下が伸びたのかもしれない。しかも、届いたミネラルウォーターにはしっかり炭酸が入っていた。

旅はこれだからやめられない。

標高3,
350メートルにあるインカ帝国の中心クスコから現地添乗してきたのは40歳くらいの日本人男性、加藤さんだった。着慣れたシャツとパンツ姿にチューリップの形をした帽子を目深に被り迎えてくれた。彼はロスで知り合ったペルー人の女性とこの地で暮らしていた。

加藤さんは日本からの添乗員と違い、現地の時間の流れで対応してくれた。急がずあわてずゆっくりと互いになるべく気を使わない自然さで。クスコからチチカカ湖のあるプーノへ向かう列車は当時世界最高の標高4,319メートルを走った。酸素不足でただ座って景色を眺めるしかない列車内で加藤さんはこれが手本だとばかりに昼寝をはじめた。列車の周囲にはアンデスの厳しいの山々が広がっていた。この高度で見習うべきは彼の姿であった。


小説『湿原』は犯罪歴ある中年の自動車整備工とフィギュアスケートをする精神の危うい女子大学生が新幹線爆破事件の犯人として捕らえられることが中心となる。東大安田講堂を頂点とする大学側と学生との攻防があり、あの騒乱の時代を背景とする。まさにふたりにとって冤罪なのだが捜査陣の事件への偏った捜査と裏づけで裁判は長期化する。

主人公である雪森厚夫は貧しさと抗し難い欲望のため窃盗を何度も重ね、長年服役。社会に出て自動車整備工としてようやく認められるような歳月を経たにかかわらず、容疑者となる。著者である加賀は精神病の医師であり、刑務所とも深い関わりを持ったようだ。そのため犯罪に詳しく、刑務所内の非人間的な扱いも描く。


ペルー旅行でお世話になった加藤さんに帰国直前、この小説『湿原』を差し上げた。とても重苦しいこの本しか持っていなかったこともある。そして帰国後、旅でお世話になったお礼に文庫本を何冊もダンボールに入れ、加藤さんが住むクスコへ送った。最初に送った際、お礼の手紙をもらった覚えがある。そして、二度目に送った文庫本はかなり後になってそのまま送り返されてきた。加藤さんが引っ越したのかどうかはわからない。彼との連絡はこうして途絶えた。

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